宇野線の茶屋町方(西方)への迂回は、単純に作った当時陸じゃなかったのと、旧来の市街地を結ぶのを優先したからですね。干拓した新田のど真ん中を貫いたところで客いないでしょうし。
当時干拓事業が完了していたと仮定しても、おそらく最短ルートは通さなかったでしょう。干拓が終わったばかりの"湿地帯"に、四国とを結ぶ重要路線の荷重を担わせるわけにはいかないので。
盛川の三角州に、軸重の重い列車を走らせる羽目になった岩手開発鉄道の例
https://x.com/GARA_2038/status/1847952379842589029
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